山の案内人

blog

山の「怖さ」

山で「怖い」と思うことがある。 この「怖い」というのはどういうことか。 片側が切れ落ちている細いみちに出会ったり、踏みあとに行き迷うと不安になる。不安とは、行く着く先に生命に危険が及ぶ可能性を見越した恐怖である。 怖いと感じるのも生き物の本能であることは間違いない。 山で判断を下すとき、この「怖い」という感覚を認識できるかどうかが重要なポイントだと思う。 認識できるかどうかと言ったのは、実際認識できていないと思われる場面に出会ってきたからだ。 たとえば冬季の登山で急な雪の斜面に出くわしたとする。まず単純に滑落するかもしれないという恐怖を感じるだろう。たまたま先行パーティーがいてロープでの安全確保をとらずにそこを通過していくのを見て、自分たちも怖くてもロープを使わずに通過することにした。これは正しい判断といえるだろうか。 他に恐れるべき要素が何もないなら、この部分をロープを使わずに通過するとしたら、「怖さ」を認識できていないことになる。ロープなしでの通過は先行パーティーの判断であって自分たちの判断ではない。滑落のリスクを最小限に抑えるため、ロープで安全確保を取るというのが、「怖さ」を感じた自分たちの正しい判断といえる。 もし、天候が悪化してきており、できるだけ早く安全圏へ達する必要があるなら、滑落のリスクより、悪天候に捕まる恐怖がより大きくなり、ここをスピーディーに通過するにはロープでの確保を取らない、という判断となる。天候が悪化するのを恐れているにも関わらず時間をかけてロープで安全確保をとるのは正しい判断とはいえない。 その時のもっとも大きなリスクを最小限に抑えることが、正しい判断となる。どこに「怖い」と感じるか、それは常に自分に問い続ける必要がある。 つまり、自分の素直な感情に正直になることだ。 山で出会う鹿も、クマも、人間もそれは同じだろう。 山に登る人間の判断とは動物がするようなそんな単純なものではない、と思うかもしれない。しかし、突き詰めて考えるほどに、山でのジャッジはシンプルで感覚的なものであるという思いに達するのだ。 - マウンテンプロジェクト 山岳ガイド 三ツ堀信二